第1回:ジュビロ磐田とは

 私がジュビロ磐田というチームを知ったのは小学生中高学年の頃。Jリーグが開幕して1年後、その名前を知った。当時の選手ではっきり名前を知っていたのはゴンこと中山雅史だけであった。小学生でポヤーっとしている私にサッカーのルールを知る訳もなく、ただ当時はサックスブルーと言う色が凄く気に入って応援しだしたのがきっかけであった。今も昔もそうであるが基本的に関西はサッカー中継が少なく、BSに入っててもジュビロの試合を見れるときは運がいい時と言う記憶がある。今でも日本代表の試合があると言うのに関西地方では普通に阪神の試合をやってる有様。サッカーファンとしたら関西はサッカー日本代表より阪神の方がランクが高いのか?と疑問になるものだ。

 私がサックスブルーをしっかり応援し出したのは私が中学に入った時であった。中学1年夏まで元々私の部屋にはTVがなく、唯一流れるラジオのサッカー番組を楽しみに毎日を過ごしていた。そこで聞いた言葉が「ドゥンガ」、「名波」、「藤田」、「オフト」と言った当時のジュビロの監督・選手であった。その言葉が私を燃やすことになったのだ。当時の私は本屋に行ってサッカー雑誌を夢中になって立ち読み、選手の情報を1つでも多く得ようと努力していた。そんなこんなしている間に私の部屋にもTVを置いてもらえるようになり、水曜と土曜はTVに夢中になっていた。

 私が初めてサッカーの試合を見に行ったのは忘れもしない1998年9月23日。最初にピッチに現れた藤田俊哉の姿は今でも忘れることはできない。その試合のスコアは7−0と初めてサッカーを見に行ってジュビロのゴール裏で応援している私の心を揺るがされないわけがなかった。得点者は川口信男、名波浩、福西崇史、奥大介2ゴール、ドゥンガ、デジマールであった。当時私は試合観戦記をつけていた。ちゃんとゴールシーンも書いてあったりして今読んだらちょっとおもしろい。「なっちゃんの動き良かった」とか「ドゥンガの怒鳴りを生で初めてみた」とか箇条書きで書いてある。7−0という猛烈な印象がある為に、奥大介がイエローカードを貰ったシーンとか、当時ジュビロに在籍していたGKの大神友明のご両親のご近所で応援したことなど記憶に残っている位である。奥大介のイエローカードは、ちょうどゴールした方がジュビロの応援の方であった。そしてご両親とお姉ちゃんが試合観戦に来ていて、地元で初ゴールだったので喜びのあまりスポンサーボードの上を飛び越えてもらったというものであった。今まで日本代表の試合も何試合か見に行っているがこの試合ほど記憶に鮮明に残っている試合はないといっていい程である。

 この初観戦をきっかけに私はジュビロのファンクラブに入ることにし、遠方ではあるがもっとジュビロを応援したいと思うようになっていった。高校ではサッカー部に入って適当なメダルももらったりして今思うとそれなりに満足していたと思う。サッカーをやることによってルールが分かり、戦術が分かる。私はそうすることによってジュビロの試合を見る楽しみを増やした。私が高校生の時はジュビロが黄金時代と呼ばれる時期でありジュビロのサッカーを見ていても飽きることなどなく毎年神戸にジュビロが来る時は欠かさず観戦しに行った。

 そして初めて「磐田市」に行ったのは2002年5月3日であった。今までファン感など行く予定を立てたもののバイトもしていないし第一ジュビロファンがまわりにいなかったため行くことができなかった。今思うと一人ででも行けばよかったと後悔している。GWのトップの練習はジュビロスタジアムで行われた。私は福西崇史と会いたかったが前前日位に代表候補に選ばれたため結局会えずじまいであったがジュビロ磐田というチームが好きである為、悔しい思いをしたりはしなかった。朝一の新幹線に乗って普通なら眠いはずなのに昼からもしっかりとサテライトの練習も見た。去年の高卒新加入選手は私と同い年でありトップに上がって欲しいという気持ちも人一倍あった。1泊2日で行った磐田の旅は楽しいものとなった。

 そして今年2003年3月21日Jリーグ開幕戦。私は静岡スタジアムエコパにいた。試合は悔しくも負けてしまったがホームゲームで見ることの楽しさを知った。まだまだ学生で学校もあるしバイトもあるので静岡に行ける機会は少ないが行ける試合、練習などをみつけて静岡に足を運びたいと思う。ジュビロ磐田というチームを真剣に応援してから7年。飽き性の私が飽きることのないジュビロ磐田。これからも私は応援し続けていくだろう。

2003年5月6日(火)